2008年09月20日

丸8年目の自殺寸前に咲いた無農薬無肥料リンゴの花!


石川拓治著「奇跡のリンゴ」(幻冬舎 1300+税)

RIMG6322.JPG

2年前の12月7日の夜、NHKの「プロフェショナル仕事の流儀」の中で、無農薬無肥料でリンゴの栽培に成功した青森の百姓・木村秋則氏を取り上げていた。
大変に感動的な映像で、観た人も多いと思う。
しかし、映像の感動というのは直ぐ薄れてしまう。
書店で表紙の写真を見たとき「ああ、あの人だ」と直ぐ分かった。
だが、なんで感動したのかを忘れてしまっていた。
そして、この百姓さんのことは全てわかったつもりになっていて、改めて本を買おうという気が起こらなかった。つまり、過去の物語になっていた。

この本は放送直後から、ノンフェクション・ライターの著者がていねいな取材でまとめたもの。そして、内容はテレビ放送の何十倍も濃い。
普通、テレビで1時間近く放送されると、その後でネタを探し出すのに苦労する。
鮮度が落ちてしまい「いまさら」という感じがするからだ。
ところがこの本は、テレビ放送よりも何倍もの感動がある。
テレビは、要点だけをザルで掬っていた。
ザルの粗い目にひっかかった情報で、茂木健一郎氏が分かったような例の口調で、話をこぢんまりとまとめていた。

ところが、この本の著者は絹のような編目のタモアミで情報を集め、木村百姓の生い立ちから婿養子先の両親、妻子を含めた苦闘の10年間を、見事に描き切っている。
この本を読んで、なぜ無謀と言えるリンゴの無農薬無肥料栽培に乗り出そうとしたのか。そしてリンゴ農家が8年間もリンゴの収穫が1つもないのに途中で「止めた」と言わなかったのか。貧乏生活をしながら何故一家が、とくに義父母が音を上げなかったのか?
テレビでは得られなかった木村百姓のトライの無謀さがよくわかる。そして偶然発見したいくつかの自然の摂理が、枯れかけていたリンゴの木を蘇生させたということも。
この本は、単なる木村百姓のサクセスストーリーではなく、石油にまみれになっている現代農業そのものを、根本から問うている。
実にすがすがしくて、考えさせられる好著。

木村百姓は1949年、青森県中津軽郡生まれ。
買ってもらったロボットをはじめとしたオモチャは、全てバラバラに分解してしまう好奇心の強い機械少年だった。中学生の時に専門紙に公開されていた回路図を参考に、学校の放送室から真空管を拝借して原始的なコンピューターをつくろうと無謀なことを計画したこともあった。高校の時はオートバイに熱中し、エンジンをいじった。
次男だったので、高校を卒業すると川崎にあった日立の関連会社の原価管理課へ就職。そこにはIBMのパンチカードのコンピューターがあった。
ところが、兄が自衛隊に入隊するというので1年半で田舎へ呼び戻された。
しかし、兄は自衛隊から帰ってきた。都会へ出てチューニングショップへでも勤めようと考えていたが、中学同級生の美千子と結婚し、婿入りすることになった。

その時、両親はいくらかの持参金とリンゴ畑1つを持たせてくれた。
その持参金で45馬力もあるイギリス製の大型ディーゼルトラクターを買った。
そして岩木山麓の荒れた原野を借地して、大規模なトウモロコシ栽培に乗り出した。大型トラクターは面白いように原野を畑に一変してくれた。
このトウモロコシ栽培に力を入れ始めたのは、妻の美千子が農薬に弱く、リンゴに散布すると一週間も寝込む。出来たらリンゴ栽培から足を洗いたいという気持ちがあった。
ある冬、トラクター農業に関する専門書を探しに書店へ入った。お目当ての本は最上段にあった。それを近くにあった棒でとろうとしたら、もう一冊が一緒に落ち、靴についていた雪の泥にまみれてしまった。やむをえずその本も高いカネを出して買った。

半年後、なんとなくその本を手にとってみた。福岡正信著「自然農法」だった。
福岡氏は「自然は完結したシステム。人が手助けしなくても葉をしげらせ、花を咲かせ、実をつける。そのシステムに手を加え、人間の都合のよいように変えようと言うのが農業。肥料に工夫を凝らし、害虫除去方法を発達させてきた。その結果、農作物は自然の産物というよりは一種の石油製品になってしまった。大量の化学肥料や農薬を投入し、農業機械を使わねば成り立たない。化石燃料が涸渇したらどうなるか。こうした人間の知恵や営みはムダであるだけでなく有害ですらある」と考えた。
そして、父より譲り受けたミカン園を放任してみた。そしたら害虫が発生し、ミカンの木が枯れてしまった。
動物園で育った動物は、そのまま野生に返せないように、ミカン園のミカンも手を加えずに自然に戻すことは出来ない。果樹園も畑も田んぼも、自然に返すにはプロセスが必要だと気づいた。

そして、試行錯誤を繰り返し、40年かけて完成させたのが「自然農法」。
その本には、米と麦とクローバの種を順次播き、育った稲ワラと麦ワラを切ってそのまま田に散らして田に返す以外は何もしないというもの。田植えも草刈りも肥料も農薬もいらないという農法。
そしてミカン園の場合は、化学肥料と農薬を徐々に減らし、鶏糞や堆肥を主体にした肥料とマシン油などでミカンがつくれるようになったと書かれていた。ミカンに関しては完全な無農薬無肥料には至っていなかった。
偶然、ついでに買わされたこの本が、木村百姓の人生と一家の運命を大きく変えることになった。

早速、仲間の農家と一緒に鶏糞を集めて堆肥をつくった。
そして、4ヶ所あったリンゴ畑にその堆肥を入れた。
それまでは年13回農薬を散布していた。それを6回、3回、1回の散布に変えてみた。
6回の畑は今までとほとんど見劣りしない収穫があった。
3回は害虫の被害はあったけれども我慢出来る範囲。
1回はさすがに虫が多かった。それでも半分以上の収穫があった。しかし、単純計算すれば農薬の経費は1/13。収益率はそれほど悪くない。これだと無農薬でも大丈夫かもしれない。そこで、入り婿の時に持ってきた畑で実験をやりたいと義父に相談したら、あっさり許してくれた。1978年頃のことだった。

青森ではリンゴの花は5月に咲く。5月、6月と無農薬でも何も問題がなかった。
ところが7月に入ったら黄色い葉が出始め、8月中旬には残っている葉はわずか。そして9月になったら、苦い小さな実の脇で一斉に花が咲き始めた。枯れ木で季節を勘違いし、来年の分が咲き始めたと言うこと。これで来年も収穫の見込みなし。
しかし、一筋縄でゆかないことは分かっていた。だから、逆にやる気が出てきた。
リンゴの病気の原因はカビや菌だ。それを防ぐものがニンニク、ワサビ、酢など農薬以外の食品関係で見つかるかもしれない。しかし、一年に1つの畑だけで試していたのでは結論が出るのに数年かかってしまう。そんな悠長なことは言っておれない。思い切って4ヶ所で一気に試してみよう。

リンゴの歴史は数千年もある。その歴史に決定的な出来事が19世紀に起きた。
それはボルドー液などの農薬が発明されたこと。これによって、それ以降のリンゴは今までのリンゴとは別物に変身した。
明治7年以降に、日本では西洋リンゴが驚くべき勢いで日本中に広まった。明治政府が「リンゴの木1本から米16俵分の収入がある」と奨励したのである。
ところがリンゴに害虫がつきはじめ、いくら害虫をとっても葉や花を食い散らすだけでなく、腐乱病で幹まで腐り始め、明治40年頃にはほとんどの県でリンゴを放棄した。
その中で青森だけが諦めなかった。気温の関係で他県のように養蚕業が出来なかったから。人海戦術で虫を一匹ずつ手で取り、苛性ソーダでリンゴの木を洗い、果実1つ1つに袋をかけた。それでも枯れれば新しい苗木を植えた。だが、明治44年には2年続けて花が咲かず、絶対絶命のピンチに立たされた。
この青森リンゴのピンチを救ったのが輸入されたボルドーという農薬。
リンゴ農家のくせに、この歴史的重要な事実を木村百姓は勉強していなかった。
無知がもたらした自業自得の失敗であった。

このため6年間は、1つのリンゴも収穫出来ず、家族は貧乏のどん底へ突き落とされた。そして木村百姓は「竈(かまど)消し」と村人全体から白眼視された。
追いつめられて、木村百姓は軽トラックの荷台からロープを引っ張り出すと、岩木山へと登っていった。2時間ぐらい登ったところで、ちょうど良い枝が見つかった。
その枝へロープを投げたら外れた。そして、ロープを取りに行こうとしたら夜見ながら輝いているリンゴの木が見えた。走ってその木の所へ駆け寄ったらリンゴではなくドングリの木だった。そのドングリの葉は、農薬もかけず、肥料もやっていないのにキラキラ輝いていた。

木村百姓は無我夢中で足の下の土を掘っていた。
土はホロホロと崩れ、いくらでも素手で掘ることが出来た。草を引けば、土のついた根が先端まで抜けた。こんなに柔らかい土に触れたのは初めてだった。
自分のリンゴ畑は草を刈っていて土は固い。
ところが雑草が生え放題の山の土は、足が沈むほどフカフカ。土が全く別物だった。
自分は今まで、リンゴの木の見える部分、地上のことしか考えていなかった。見えない部分のことは完全に無視していた。
堆肥を与え、養分を奪われないように雑草を刈り、葉の状態ばかり気にしていた。リンゴの根のことと土のことを忘れていた。
この雑草の中で、ドングリはすくすく育っていた。根を伸ばして栄養と水を吸収していた。草が生えているからこそ、木の葉が堆積しているからこそ、ドングリは元気なのではないか。この柔らかい土は、人が作ったものではない。虫やミミズや微生物が、フカフカの土を作っている。

死のうと考えていた人間が生き返った。
しかし、それからリンゴが収穫出来るまでには更に2年間が必要だった。
収穫した小さなリンゴが売れるようになるまでには、さらなる時間を要した。

一本一本のリンゴに謝り、話しかけていったら根は次第に伸び、普通は数メートルしかないのものが20メートルにまで伸びた。
そして、健康でおいしいリンゴは引っ張りだこで、FAXでの注文が殺到するまでになっている。

木村百姓の虫とリンゴに関する知識は、どの大学の教授や研究者でも太刀打ち出来ない。
総合的に捉えることが出来る百姓の強みがそこかしこに光っている。
そして、虫に関する話だけでも、ファーブルの昆虫記に匹敵するほど面白い。
posted by unohideo at 06:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 食品と農水産業 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年07月30日

日本におけるバイオエタノールの問題点


2、3年前まではバイオエタノールはCO2削減の救世主の第一人者と考えられ、特別に温かいまなざしで注目されていた。

ところが、投機マネーで石油が高騰し、資源価格も急上昇。
そして、トウモロコシ、コムギ、ダイズ、コメなどの穀物価格の世界的高騰。
その原因が、主としてトウモロコシを原料とするアメリカのバイオエタノールへの急激で、過剰な投資にあるかのように報道された。
洞爺湖サミットで、このアメリカのバイオエタノールへの投資抑制を打ち出せなかったのは、大失敗であるという論調が横溢している。

本当にそうなのか?
その素朴な疑問に答えを用意してくれているのが下記の著書。


RIMG6143.JPG

山家公雄著「日本型バイオエタノール革命……水田を油田に変える地域再生」(日経出版1800+税)

著者は日本政策投資銀行調査部の審議役。
開銀に入行以来、主に環境やエネルギー畑を歩き、ロス駐在の経験もあってアメリカのエネルギー事情に精通している。
そして、日本のバイオの現場を歩いて書いた本だから、単なる机上の空論ではない緻密さとフィールドワークが評価出来る。

まず、世界のバイオエタノールの生産量だが、2007年で6,300万キロリットルと言われている。
このうち、アメリカが39%、ブラジルが30%を占めている。
なんと2ヶ国で70%ものシェアを持っている。

トップのアメリカのバイオエタノールの原料は、その95%がトウモロコシ。
これが飼料とからんで問題視されている。
アメリカのエタノールの生産量は2001までは横ばいであった。ところが02年から目覚ましい伸びを見せている。
2001年  670万キロリットル
2002年  806
2003年  1,064
2004年  1.291
2005年  1.476
2006年  1,855
2007年  2,460

このように、過去7年間で4倍の生産量となっている。
そして、07年の12月に両院を通過した「エネルギー自立・安保」によると、2022年までには昨年の5.6倍の1億3680万キロリットル(うちトウモロコシ原料が5700万キロリットル、セルロース等で7980万キロリットル)の生産にまで高めることにしている。
しかし、これからの11年間でトウモロコシの需要量は31%増加するが。バイオエタノール用としては急速な伸びはここ当分の間だけで、2018年の比率はそれほど変わらないとしている。
    飼料用  バイオ用  輸出用 食品・工業 
2007   49.9   18.9   19.0   12.2
2018   39.6   33.3   16.8   10.2

この間に、バイオエタノールの伸びが131.5%と特筆していて比率が1/3になるが、飼料をはじめ他の絶対量は減るわけではない。飼料は4.1%、輸出は16.5%、食品・工業用は9.5%伸びると予測している。したがって、飼料価格を必要以上に押し上げないとしているが、農家にとっては値下がりの要素がほぼ皆無になったことは事実。
そして、このところのバイオエタノールに対する投資は過剰で、早くも設備過剰による淘汰が囁かれているという。

アメリカが、ここまでバイオエタノールに力を入れるのは、カリフォルニア州に代表されるようにCO2排出源の40%が自動車からだという事実がある。車社会の泣き所。
シュワルネッガー知事が日本のハイブリッド車の普及に力を入れている理由がわかる。
そして、2025年までに中東原油の75%削減が国家のテーゼになってきている。したがって、一方的にアメリカのトウモロコシを俎上に揚げ、追求する姿勢は必ずしも正鵠とは言えない。むしろ、問題にしなければならないのはセルロース系の技術開発の遅れ。
このイノベーションこそ、バイオエタノールのカギを握っている。

このアメリカに対して、ブラジルの場合の原料はサトウキビ。
砂糖用をわずかにエタノール用が追い越したが、サトウキビは国際的な穀物価格を動かすことはない。
ただ、森がサトウキビ畑に開発されて、熱帯林が減少しているというインデイアン側から告発した南研子著「アマゾン、森の精霊からの声」という貴重な記述がある。
しかし、サトウキビはコムギやトウモロコシ、ビートに比べて単位面積当たりの生産量はダントツに高く、またコストの面でも小麦やビートの1/3であり、トウモロコシの半分にすぎない。
バイオエタノールとしての優位性は揺るぎがない。
ブラジルのサトウキビエタノールに対しては、三井物産をはじめとした日本の商社も食指を伸ばしており、これからは日本へも輸入されてこよう。

日本におけるバイオ燃料を推進している役所は、主として農水省、経産省、環境省。
農水省は2030年までに国産燃料を600万キロリットルという目標を建て、その内訳として糖・デンプン質5万kl、草木系180〜200kl、資源作物200〜220kl、木質系200〜220kl、バイオディーゼル燃料10〜20klとしている。
そして、2007年6月に補助事業として3ヶ所(苫小牧、十勝、新潟)、計3万1000klが採択されている。これは5年間の実証生産プロジェクトで、設備投資とランニングに対して1/2の費用が補助される。
この農水省のほかにもバイオエタノール実験事業として6ヶ所の事業が採択されている。
・北海道十勝(原料 ビート、小麦、コメ)
・北海道苫小牧(原料 コメ)
・山形県新庄(原料 コウリャン)
・新潟県(原料 コメ)
・大阪府堺(原料 廃材)
・岡山県真庭(原料 木質バイオ)
・北九州(原料 食品廃棄物)
・沖縄県宮古(原料 糖蜜)
・沖縄県伊江村(原料 サトウキビ)

残念ながら、著者はこの全ての動きを追ってはいない。
主として追っているのは農水省関係の3ヶ所の補助事業。
というのは、とくにコメを原料とする場合には、日本の食料自給率の問題、休耕田の問題など、日本の農政そのものと深くかかわっている。
そこに、なんとかバイオによって解決策がないかと的をしぼって探求している。したがって、木質系や廃材系のバイオに関心のある私共建築関係者からは、少し視点がズレている。

水田が休耕田として水利管理が行われなくなると、いざという時は食料の自給率を高める役割を果たせない。そこで多収米を植えて、それのワラを含めてバイオエタノールをとるという実験。
ガソリン価格やブラジル産のバイオエタノールの価格から考えると、コストはリッター当たり100円に抑える必要がある。
そのためには原料のコメは20円/kgで手当ができなければならない。農協の買い上げる一般のコメが200円/kgということを考えると、これはなかなか厳しい条件。
さらにエタノール精製プラントの規模やコストの問題、ワラなどセルローズ系の技術開発、ガソリン税の問題など、蓄積している問題は余りにも多い。
しかし著者は、休耕田の水田を油田に変える可能性はあると考えている。それには、コメ・エタノールは、地域再生の食料問題として捉える必要があると強調。

posted by unohideo at 07:19| Comment(1) | TrackBack(0) | 食品と農水産業 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月10日

あの上勝町には安月給の全てを料亭に注ぎ込んだ馬鹿がいた!


RIMG5388.JPG

横石知二著「そうだ、葉っぱを売ろう!」(ソフトバンククリエーテブ1500円+税)

ご存じのとおり徳島市は四国の東端、紀伊水道の海に面している。
市の中心部を南下し、那賀川沿いに35キロほど西へ山道を登ってゆくと人口2000人という四国で一番小さな町にたどり着く。
この上勝町は、料理に添えるツマモノや花物の生産と出荷のため、町のおばちゃんがパソコンを使って活き活きと活躍している。
その姿を、NHKをはじめとして各テレビ局が何度も取り上げてきているので、すっかり有名になってしまった。
かなりの人が「おばちゃん達のやっている葉っぱ商売」のことを知っている、と思う。

四国には、もう一つ有名な特産品がある。
それは、高知市からタクシーで2時間も飛ばさないと着かない徳島との県境に近い馬路村。
村の97%が山林で、人口はわずか1200人。
この村は、山林の他には何もなかった。ただ、昔から自家用のユズの木が沢山あった。それを使ってユズぽん酢しょうゆを作り、今から20年前の1988年に東京・池袋の西武デパートが開催した「日本101村展」で出店したら最優秀賞を獲得。いきなり馬路村のユズが有名になった。
その年に農協の1課長が、絞ったユズに蜂蜜入りのドリンクを試作し、製造を開始した。
しかし、ユズの知名度はあってもドリンクは無名。サッパリ売れない。そこで村長に掛け合い、半分を村費で負担してもらって地元テレビにコマーシャルを入れた。それでやっと反応が出てきた。そして、東谷望史著「ごっくん馬路村の村おこし」(1998年、日経新聞刊)で一躍全国にその名が知られた。私もデパートの特産品売り場で、ごっくんドリンクを飲んだことがある。
このドリンクをはじめとして多彩なユズ関連商品の開発を進め、産地直送による販路拡大で、馬路農協の売上げは30億円を突破している。
http://www.yuzu.or.jp/

このユズによる村おこしには、当然のことながら中心人物がいた。
それは、現農協専務の東谷望史氏。
上記のURLを開いてもらうと、その経緯が分かる。
ところが、上勝村関係のテレビを見ていると、画面に登場して活躍しているのはいずれも高齢のおばさん達ばかり。
誰が仕掛け人となってこの新商売のシステムを築き上げ、販路を拡大していったのか。
その肝心のポイントがよく判らない。
調べてみようと考えていたとき、偶然にこの本に巡り会えた。

著者の父は県庁職員。
県庁職員になるのは大変な狭き門。
一般職では大卒でも採用が難しい。ところが農業改良普及員という専門職なら県立農大を出ていれば採用の可能性がかなり高い。父の薦めで県立農大を卒業し、改良普及員の資格試験にパスしたが、その年は採用がなかった。
そんな時、上勝町農協から営農指導員としてこないかという直接指名があった。木材が売れず、ミカンも伸び悩み。なんとか新事業を興すには地元に関係のない人間に限るという町長の英断で採用が決まった。農協は赤字続き。町が給料の補助金を出しての採用。

喜んで遠い山道を車で出勤し、ともかく一軒一軒農家を挨拶して回った。
まず驚いたことは、何人かの年寄の男衆が朝っぱらから一升瓶を下げて農協や役場に集まり、「国が悪い」「役場が悪い」「お前はわしらに何の補助金をとってきてくれるんだ」と延々とくだを巻いていたこと。
女の場合はもっと悪く、縁側で朝から昼までお互いに嫁の悪口を言い合っていた・・・。
たかりの精神しかなく、自分の町に対して悪口の限りを尽くして気を紛らせていた。
「このままではダメ。もっと違うことをやりましょうよ」と言ったら、皆が怒った。
「お前の給料はわしらが出している。よそ者が偉そうなことを言うな。出てゆけ」と。

就職して2年目の1981年の2月。上勝町に衝撃的な事件が発生した。
2月の平均最低気温が1.6℃の町に−12℃という異常寒波が3日間も襲い、基幹産業のミカンの木が壊滅状態になったのである。
ともかく短期間でつくれ、現金収入が得られる作目の生産が、何が何でも必要。
そこで「何か市場に出荷出来るものはありませんか」と農家を回って野菜類を集め、中央市場へ運んで場立てにも立ち会った。そして、親切な市場の人に教えてもらい枯れたミカン園地の苗木の間作に茨城からサツマイモを買ってきて植えさせ、ワキギやホーレン草の栽培を推奨するなど、それこそ営農指導員として夜も昼もなく、年間4500時間働いた。
各農家も危機に直面して、打たれ強い農民魂が蘇り、必死の努力の結果、農協の扱い品目が寒害のあった年の8品目が14品目、18品目、24品目と年ごとに増加し、売上高も1.1億円から1.3億円、2.2億円、3.4億円へと急速に回復・・・というよりはキリ干しイモ、ワキギ、ホーレン草などの栽培で飛躍的に伸びた。その後シイタケ栽培も軌道に乗り、災いが福に転じた。

この中で、筆者は営農指導よりも販売指導の方が重要だと気が付いた。それと、年寄りや女の人に出来る仕事がないだろうかと考えるようになった。
1986年の秋、大阪へスダチの出荷の帰り、難波の寿司屋へ入った。
女子大生らしい3人連れが、料理についてきた赤いモミジの葉っぱをつまみ「これ、かわいい、きれいね」と大喜び。仲間もコップの水にモミジを浮かべ、「持って帰ろう」とアイロンのかかったハンカチに大切にしまった。
「こんな葉っぱは上勝の山にはいくらでもある・・・」と思った瞬間、閃いた。
「そうだ、葉っぱだ! 葉っぱを売ろう!」と。

しかし、誰に話しても「そんなにもん日本全国どこにでもある。売れるわけがない」と相手にしてくれないだけでなく、気狂い扱い。
しかし、香川県で花物を出荷している農家、大分県では梅の枝を出荷しているという話を聞いて訪ねた。そして、花卉農家を中心に働きかけたら、4人のおばさんが「やってもいいよ」と言ってくれた。
さっそく、自然のままの山のモミジの葉っぱをパックして「いろどり」というネーミングで出荷したら、期待に反してというか、予想どおりというか、1パック5円の値段しかつかなかった。

ある料理人から「こんなもの、わしは絶対に使わない」と言われてツマモノに関する商品知識と料亭料理にそのものについて何一つ知っていないことに気が付いた。そこで料亭回りを始めたが、どこへ行っても相手にしてもらえない。手がかりが一切得られない。
やむを得ず、有名料亭へお客として一人で上がり込んだ。そこで、はじめてツマモノがどのような料理に、どのように添えられているかを学んだ。
当時、営農指導員の給料は手取りで15万円。
その15万円の全てをツマモノ研究に投じ、月に7〜8回ほど料亭へ足を運んだ。
著者が20才の1979年に上勝町に赴任してから17年間。つまり1996年の37才になるまで一度も給料を家に入れていない。両親との同居と奥さんが働いていたという好条件に恵まれていたせいである。それにしても、全給料を商品開発につぎ込んでいたことは農協関係者も役場の人間も、誰一人気が付いていなかった。
このような大馬鹿者が存在したからこそ、過疎の町に新しいビジネスが誕生したという事実。それは、決して町に対する奉仕精神というものではない。新しいビジネスが楽しくて、自分のことを忘却させるほどの面白さがあったということであろう。

しかし、さすがに17年間、給料を入れなかったことに対する自責の念から「辞表」を提出した。そしたら、葉っぱの仲間の177人おばさん達の手書きの署名入りの「嘆願書」が届けられた。
その後の経緯は、下記のURLを開いていただきたい。
http://www.irodori.co.jp/

ある運動が展開する場合には、必ず中核に私欲を忘れた人物が存在している。
そして、多くの地域が過疎地化している最大の原因は、国や県に依存するたかりの精神しか持っていない国会議員と地方議員、それに市町村長と、組合の過保護でぬるま湯に浸っている職員しかいないから・・・。
地域の存亡は、ベンチャー精神溢れる人材の有無にかかっている。
posted by unohideo at 06:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 食品と農水産業 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月25日

カナダ生まれのアンさんの「産農協同の無農薬米による酒づくり」


カナダ生まれの「あん・まくどなるど」さん。
高校および大学時代に日本へ留学した経験がある。
バンクーバーにあるブリテッシュ・コロンビア大学の日本語学科を首席で卒業。
長野県のトムソウヤ(富夢想野)舎の農村塾で6年間にわたって農村をフィールド・ワーク調査。

その研究成果を「原日本人の挽歌」(清水弘文堂)として発表し、世に出る。
しかし、1994年に長野の定点観測拠点が火災で焼失し、生活の基盤を失った。
それからの7年間は「原日本人観測」から「現日本人観測」に視点を変え、日本全国の農村漁村をフィールド・ワークしてまわった。

そして、2001年に宮城県のJR松山町駅に降りた時「この町こそ私の永久的な観測点、カントリー・ホームである」と直感。
それからの6年間、きれいな沢の水で無農薬の米をつくり、その同じ沢の水で酒をつくる「産農協同プロジェクト」の一会員として参加させてもらいながら書き上げたのがこの本。
あん・まくどなるど著「田園有情 ある農家の四季」(発行アサヒビール・発売清水弘文堂  税込み1990円)


RIMG3094.JPG

ことの起こりは、宮城県の若手酒造組合員4社による「醸和会」という勉強会。
中小企業構造改善制度に共鳴して企業合同をし、1972年に「一の蔵」を誕生させた。
そして、松山町に7つある沢の水の良さにこだわって、環境保全型の米造りによるおいしくて安心な酒造りの模索をはじめた。
その農家側の受け皿となったのが「松山町酒米研究会」。
発足当時の会員農家数は12。栽培面積は8.6ヘクタールだった。
それが今年は36農家に増え、栽培面積は8倍以上に増えて70.6ヘクタールになっている。

この一の蔵の広報を担当していたのが故人となった鈴木和郎さん。
あんさんの講演を聴いてその「農業感」に共鳴し、松山町へ呼んできて講演会を開催したのがきっかけ。
当時あんさんは山形に住んで、宮城大へ専任講師として通っていた。
そこで鈴木さんが当時の狩野町長にかけあって、「町が管理している旧家老屋敷を提供するから松山町に住まないか」ということになった。それが01年のこと。

仙台藩伊達家臣には「一門」から「郷士」まで12の家格があった。
松山町の殿様茂庭家は上から4番目の「一族」で禄高は1万3千石。
その由緒ある広大な屋敷。樹齢350年という樹木が育ち大きな池もある屋敷の最後の住人は子孫の鈴木博子さん。学校の先生で生涯独身だったが、死ぬ前に先祖代々の貴重な遺産を後世に伝えるために町に寄贈。
そこへ、カナダ生まれの若きおばさんが住みついた。
そして、02年から酒米研究会に特別会員として参加させてもらい、米づくりのママゴトを
はじめたというという次第。

この著書は、歴史のある美しい農村の写真集でもある。
と同時に、新しい農村の息吹も謳っている。
4年半も前から撮りはじめた数多くのカラー写真と白黒の陰翳に富んだ写真が、ほぼ全ページを飾っている。
いかにもフィールド・ワークを主体にした著者の意気込みと感受性が伝わってくる。
カナダ人女性が捉えた感動がビンビンと響いてくる。
したがって、やれ環境問題とか、農業問題とかと肩をはらずに、詩か俳句集を詠むような気楽で素直な気持ちで読めるのが嬉しい。

それと、面白いのはこの本が出版されたのが今年の7月。
その1年前の昨年8月に、一の蔵の関係者とか酒米研究者を集めて「あとがき座談会」を行っていること。故人の鈴木さんがこの座談会に加わっているのが印象的。
あとがきというからには、当然著作作業が終わって、ゲラ刷りを読んでの座談会。
ところが、この座談会の時点では、一行も書いていない。
写真が集まり、構想がまとまった段階での座談会。
したがって、この座談会がきっかけとなり、ペンが一気に進んだのだと読みとれる。
これも、考えようによっては「いかにもフィールド・ワークに軸足を置く著者らしい振るまい」ということになる。

いち早く高気密・高断熱住宅に取り組んだビルダーと同様に、いち早く有機農法・無農薬栽培に取り組んだ農家。
それは「地球を守る」という大袈裟なことが動機ではなかった。
自分が食べたくない農薬まみれの不健康な野菜や果物、米はつくらない。
量が売れさえすれば良いという、農協指導の量産作物づくりはお断り。
「健康で、おいしいものを作りたい」というのが動機だった。
そして、自分の手で仲間と消費者を開発していった。
ビルダーの場合も、次世代省エネ基準で、スカスカの気密性しかないプレハブ住宅では絶対に健康な子どもが育たない。「自分が住みたい家は、もっとソフトな温かさと爽やかで涼しい家でありたい」という動機からスタートしている。

そして、温暖化という地球的規模の環境問題から、有機農業も高気密・高断熱住宅も、次第に主流になろうとしている。
しかし、いずれの世界でも既得権を守ろうとする守旧派が各派を巻き込んで抵抗を続けている。

その中にあって松山町のプロジェクトが素晴らしい点は、一の蔵という酒蔵がリスクをとって契約栽培を軌道に乗せつつある点。
環境保全型農業の審査に合格した酒米を一の蔵は通常より高い価格で買う。審査を通らなかった酒米は通常の値段で買う。いずれにしろ、契約栽培のものは審査を通る、通らないにかかわらず、全部酒造会社のリスクで引き受ける。
初年度は2戸の審査不合格が出た。
決められた量の除草剤を散布したあと液体が残った。それを「もったいない」と、ついつい余分に散布して落伍者となった。

しかし、落伍者は切り捨てない。カイゼンしていこうじゃないか。
だが2年目。審査外れがまた出た。
今回は初年度ほど甘くはない。生産者に罰が与えられ、現場は真剣になった。
3年目。全員外れ無し。
今年の5月、酒米研究会全員がエコ・ファーマーとして認定された。
そして「一の蔵」のはニューヨークの酒場でも大好評を博している。

著者はこのほかに、機械をはじめとした農業のエネルギー問題に言及している。
私が心酔している岩澤信夫氏の「不耕起農業」のすばらしい可能性にも触れている。
カナダ生まれの若きおばさんは、あなどれないどころか、その好奇心あふれるバイタリティから学ぶべき点が多い。
posted by unohideo at 04:58| Comment(1) | TrackBack(1) | 食品と農水産業 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月30日

成熟化社会を先導する「農」の新たな役割を問う好著


RIMG2156.JPG


大澤信一著「セミプロ農業が日本を救う」(東洋経済刊 1700+税)は、非常に大きな問題の解決策を提起してくれている。
「日本の食料自給率が40%を割り、大変だ」と誰もが叫ぶ。
叫ぶだけだったら赤子にでも出来る。

今度の選挙で、民主党は「地域を再生するために農家の戸別所得補償制度を創設する」とマニフェストに謳い、大きく議席を増やした。
地域の再生には大賛成。
しかし「農家の戸別所得補償制度」という手垢のついた旧来の「予算のばらまき政策」で、日本の農家が救われるとは考えられない。
まして自給率の改善などは、絵に描いた餅にすぎないと思う。
このマニフェストが、将来大きな禍根を残すという気がしてならない。

100年前の日本は農業国家であった。
それが二つの戦争を挟んで「富国強兵」路線と、戦後の経済一辺倒の工業化路線。これが勤勉な国民の総意と英知と努力で実を結び、日本は最短期間で工業化を成し遂げ、世界最強の工業国家の一つになることが出来た。
国民の所得水準が大幅にアップし、労働時間も短縮し、平均寿命も延びた。
この日本の成功を間近に見て、台湾や韓国が続き、最近では中国やインド、ロシヤも同じ道を歩み始めている。

そして、いちはやく日本は「生産大国」から「生活大国」への脱皮を、試行錯誤の模索をしながら始めている。
地球環境に思いをいたし、エネルギーの消費を最小限に抑え、食の安全と安心を考えながら食料資源を充実させ、国民の満足度を高めて行くというのが、これからの日本がとるべき道であることは間違いない。

その方向として、農地法や農協法を大改正して株式会社の農業への参入を認め、農業規模の拡大を目指そうとしている。
たしかに日本の農地や山林は零細であり、しかも地主の権利はやたらに過保護されている。それにメスを入れ、「効率化」「合理化」を果たさなければならないのは事実。
だが、規模の拡大だけが日本の農業が再生と、食料自給率の向上には繋がらない。
それは再生政策の半分でしかない。
あとの半分は「セミプロ農業」の育成と定着がないかぎり日本農業の再生はあり得ない、と著者は強調する。
この視点が新鮮で、説得力を持っている。

著者はまず直売所というダウンサイジングされたシステムが、日本の農業を変える大きなカギになると考えている。
今までの流通システムは全国規模で、農協の出荷組合が一括で農産物を集荷し、青果卸売市場を通じて全国のスーパーや小売業者から消費者へ流されていた。
このシステムでは、農家はマーケティングの外に置かれてきた。自分が栽培した農産物がどのような消費者の手に渡り、どのような評価を受けているかが一切わからない。見た目が格好良い農産物を、如何にたくさん収穫するかということしか考えられない。

ところが、直売所は「作った人」が「売る人」である。
生産した作物の評価は、直に生産者に伝わる。
愛媛県の内子町の「内子フレッシュパーク・からり」は、いち早く携帯電話でのPOSシステムを導入した。
この直売所に出荷する農家は、持参した農作物に各自の思い通りの価格を、ラベルプリンターに打ち込んで商品に貼って並べる。このラベル価格が簡易POSシステム。
そして、午前9時以降であれば、望む時間に出荷した農作物の販売状況が携帯電話に連絡される。
出荷者のなかには、その販売状況をみて、日に二度、三度と野菜を収穫し、直売所に運ぶ人もいる。

直売所の閉店は夕方の6時。
当日、出荷して売れ残った物は生産者が持ち帰えらねばならない。
したがって、いい加減な価格をつけるわけにはゆかない。
生産者は、単に良い作物を作ればいいというだけではなく、マーケットのニーズを掴んで、消費者の声を直に聞いて「作り」そして「売る」。
ここにあるのは、今までの農協の出荷組合のビジネスモデルとは全く異質のもの。
ダウンサイジングの新しいビジネスモデルが生まれてきている。

そして、直売所では生産者の名前が分かるから、ブランド化されてもきている。
あの生産者の畑の土がよい。したがって野菜は安心で美味しいという評判がたってブランド商品化する。直売所では指名買いが生じている。
茨城県の「みずほの村市場」は、日本を代表する直売所の一つ。
この直売所では売上げの80%が1万人の固定客によるものだという。そして、この固定客が1万2000人を超えたとき、会員制の農産物販売ビジネスに転換するという。
ここでは、年間四回会費をとってモニター会を開催しているという。
指名買いをしている消費者と生産者の情報交換で、買い上げられて作物がとのように料理されているのかという消費者実態や新しいニーズが分かる。一方、農家からは栽培上の問題点が教えてもらえる。
全国の直売所の販売シェアはまだ1割に満たないが、大きな可能性を秘めていると筆者は期待している。

こうした直売所の存在が、セミプロが農業に参入しやすくしている。
作物をつくることは出来ても、販売ルートが農協しかないということであれば、セミプロが農業へエントリーすることは非常に困難。
団塊の世代は、レジャー農業に対して親しみを持っている世代。
この世代が、ダウンサイジングの農業経営にうまくマッチできる。
この団塊の世代の生活の基本は年金収入で賄われる。補助金という名の税金を投入する必要がない。
そして、市民農園制度の充実整備を進め、ウォンツである農業への志向を満足させながら、楽しみのアマチュア農業を始めてもらう。
そして、その中から意欲、能力、技術を高めた人がセミプロ農家へステップアップしてゆけるプログラムを用意する。

こうした定年就農という形を築き上げて行くことこそが脱工業化社会の第一歩であり、老齢化した農家に新しい血を流し込むことになる。
そして、先端産業の場で経験したソフトの技術を活用し、直売所のシステムと直結すれば、新しい「食・農システム」に大化けする可能性が高いという。
これを基本に展開を図ってゆけば、日本の農業がどのように再生し、日本型のサステイナブル農業が育つか。そして、農業の競争力と自給率の向上がどのように図られるかということを、細部に亘って論及している。
非常に教えられるところが多い。

農家への「戸別所得補償制度の創設」をマニフェストに掲げた民主党が大勝した今朝だからこそ、この本の価値が一段と輝きを増したと言える。
posted by unohideo at 13:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 食品と農水産業 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。